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何もいいことがなさそうな1年の始まりに: 中原昌也『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』と町田康『くっすん大黒』

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甘えなんかじゃありません。どう考えたって生きづらい世の中です。

目に入ってくるのは救いのない悲しい事件や、あきれるほど幼稚で理不尽な腹立たしいニュースだらけだし、ネットを開いても建設的な議論の入り込む余地などなく、誰もがやり場のない諦めと憤りを持て余しているのを目の当たりにするばかり。恐る恐る試しに何か呟いてみても、いいね。なんて言ってもらえるわけもなく、誰からも求められず、どこにも居場所がないのを確認させられる一方です。

 

気晴らしに本屋なんかへ行ってみても、真面目にコツコツやってる奴なんかバカ、楽してこずるく稼いだ奴が一番偉いんだ!といった趣旨の、信者からの搾取を主な目的とした自己啓発本やたらと平積みされていて、それらの本に書かれているであろう理論からすれば、この情報社会において本なんかちまちま読むのはそもそも時間の無駄なはずなので、わざわざ出版社で働くような人たちがこんな本を作らなきゃならないんだから、そりゃ出版不況も進むよな……と、勝手に出版業界の行く末まで憂うはめになったり。

 

そんなこんなで、あっという間の2021年でしたが、よくよく振り返ってみると何一ついいことがありませんでした。

真っ当に生きようとしているつもりでも何の手応えもなければ成果もなく、実際にはただ時間が過ぎただけでロクな目に遭いません。この前なんか乗りたくもない通勤電車で思わずフラついたら、後ろにいたパワハラ気質丸出しなスーツ姿の中年男性に頭を小突かれて、恐ろしい目で睨みつけられましたよ。

 

あぁ、つくづく生きづらい世の中です。生きやすいなんて言える人がいるとしたら、きっとそれは、こずるく稼ぐのが上手なだけで他人のことなど考えない無神経な人間か、電車で人の頭を平気で小突ける危険な人物の可能性があるので注意した方がいいでしょう。

こんな閉塞感と無力さばかり突きつけられる現実を、それでも生き抜かなければならないなんて……。どうせ今年もいいことなんてないんだろうなと思うと、やりきれない気持ちにもなりますが、もはや感傷は敵です。しぶとく生き延びようと思えば、この笑えない現実を無理やりにでも笑い飛ばすしかありません。そう、自分を、全てを笑い飛ばす、強烈なユーモアの力が必要なのです。

 

中原昌也またの名を暴力温泉芸者もしくはヘア・スタイリスティックス一部にのみ絶大な知名度を誇るノイズミュージシャンが原稿料ほしさに無理やり書いたものの、結局は金にならず文学界を憎むこととなった1998年刊行の処女作品集『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』には、それが詰まっています。というか、それしか詰まっていません。

本作に納められた数ページから20ページ足らずの短編12篇の根底を貫いているのは、世の中への悪意をむき出しにした攻撃的なユーモアです。単なる思いつきとしか思えない、まるで悪夢のような妄想 & 読者への嫌がらせとしか思えない、ひたすらに悪臭を放つ不気味な描写の連続。そして飛躍しすぎた発想が生む驚きの展開は、この世の全てを死んだ目で嘲笑っているかのようです。

 


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私が本品を初めて読んだのは高校生の時。読書自体をあまり面白いと思っていなかった私にとっては、それまでにない新鮮な読書体験で、あまりのくだらなさに感心しながらページをめくったのを覚えています。

中でも、何となく書いた一文が連想ゲーム的に次の展開を生み出していくような「あのつとむが死んだ」、内容と全く関係のない投げやりな題名からして文学構造への自由なアプローチが感じられる「物語終了ののち、全員病死」は傑作! はっきり言って、ほとんどギャグ漫画です。

 

私が本作を読んで真っ先に思い出したのは、小学生時代に竹書房の文庫版で初めて読んだ『天才バカボン』の衝撃でした。言わずと知れた赤塚不二夫の名作ですが、単に昔の古いギャグ漫画というイメージしか持っていない方も多いかもしれません。私自身がそうでした。

しかし実際に読んでみると、その印象は一変します。確かに連載初期こそ愉快で牧歌的な古典ギャグといった趣であるものの、巻を追うごとに意味のないギャグと悪ノリだけがエスカレート。突然、劇画調で描かれたエピソードが掲載されたかと思えば、右手が折れたため左手で書いたという回が登場したり、さらにはコマの順番をバラバラに入れ替える、主要キャラが全く登場しない、意味もなく作者が山田一郎に改名するなど、ギャグ漫画というよりは漫画の仕組みを対象とした前衛的実験作品へと変貌を遂げ、現代にも通じるその大胆な先進性に、小学生ながら大きく驚かされました。

どこまで発想を飛躍させられるか。赤塚作品最大の魅力である悪ふざけの追求は、限界まで発想を飛躍させることによって、世の中を構成している常識(とされている考え方)や意味への盲信を乗り越え、逸脱させようとする欲求から来ていたのではないかと思います。

 

そんな赤塚ギャグと同じ衝撃を文学という形で与えたくれたのが、この『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』です。「文学」と言われてしまうと、作品には必ず何らかの深い意味や崇高なメッセージが込められているはずで、無意味なギャグの入る隙間などはない、と無意識に思い込んでしまっている人も少なくないような気がします。しかし例えば、あのいかにも意味ありげな純文学作家というイメージの太宰治にさえ、意外とギャグで書いていた部分はあるんじゃないかと思うのです。

遺作である「斜陽」には、庭でお月見をしていると母親が茂みの中に入っていったので、何をしているのかと思ったら野ションだったという場面があるのですが、個人的に好きな作品ではないものの、これには思わず笑ってしまいました。主人公一家の母親の持つ天真爛漫な上品さを表現するための描写ではありますが、これはもう笑わせようと思って書いたと思います。

 

ただ、本作『マリ&フィフィ〜』のユーモアは、それよりももっと切実なものであるような気がしてなりません。全編に漂うネガティブなエネルギーと悪意に満ちた文章から感じられるのは、世の中に対する嫌悪感であり、憤りであり、諦めの念であったりします。しかし、こうした露悪的とも悪趣味とも取られかねない感情の提示、何なら相手を不快にさせてやろうという表現の根本にあるものは、自らをも含めた世界の醜悪さをごまかすことなく見つめる誠実さであり、そして一見対極に思えるかもしれませんが人を笑わせるのと同じ、他者の心に働きかけようとするサービス精神のようなものではないかと思うのです。

相手に都合の良いことだけを言っていれば、波風は立たないかもしれませんが何かが変わる可能性もありません。とは言え、欺瞞や無関心を良しとせず、実直な思いをそのままぶつけたところで、簡単には受け入れてもらえないのもまた事実。それ故、そうした誠実さやサービス精神のようなものは生活の中ですり減り、徐々に失われていくのが通常です。そんなことにわざわざ心を砕いても、世間からは評価されるどころか無視をされたり、誤解を受けたり、嫌な顔をされたりと、やるだけ無駄というか、損をした気持ちになるだけだからです。

こうした世間との埋めがたい溝に絶望を感じながらも、しかしそれでもなお、どうにもならない状況を笑い飛ばすことで他者の気持ちに働きかけようとしているのが、本作にあるユーモアの本質なのではないかと思います。笑えない現実をおちょくるために悪態をつく。その一貫した態度には、単なる露悪趣味の一言では片付けることのできない、切実さを感じずにはいられないのです。

 

 

この作品と同様、力強いユーモアによって新鮮な読書体験をもたらしてくれた作品が、もう一つあります。町田康が1997年に刊行した処女単行本『くっすん大黒』です。

特に、表題作と共に収録された「河原のアパラ」。レジの前ではフォーク並びをした方が効率的だ、と主張自体は真っ当な訴えをフライドチキン店で繰り広げるも、変人扱いしかされず奇行に走るプロローグや、主人公の働くうどん屋に連れてこられた猿が、唐突に釜茹でになってしまうというシーンの突拍子も無さは鮮烈で、こちらもやはり高校生の頃に読んだのですが、現在に至るまでずっと記憶の片隅にこびり付いていました。

 

町田康いえば、かつては関西NO WAVEと呼ばれる音楽シーンを牽引したパンクロックバンドINU町田町蔵として、現在は汝、我が民に非ズのボーカリストとしても活動するミュージシャン。世代こそ違えど、奇しくも同じくアンダーグラウンド音楽を出自に持つということもあってか、町田康本人も中原昌也への共感を口にしており、中原の作家デビュー20周年を記念して発刊された『虐殺ソングブックremix』では、中原の作品「待望の短編は忘却の彼方に」の再構築小説を寄稿しています。

 


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その根底に切実なユーモアという共通性を持つ両作品ですが、町田康大阪弁しゃべくりのようなリズム感で、どこか呑気さや豪快さを感じさせるのに対し、中原昌也は何の思い入れもないであろう文学らしからぬ陳腐な常套句をサンプリングやコラージュのように並べることで、全く心のこもっていない無機質な空気感を生み出しているのも印象的です。その違いはまさしく、両者の出自である音楽活動のスタイルとも一致。それぞれの音楽性が文体にも反映されることで独自の作風を築き上げている点も興味深く、両作家のデビュー作であるこれらの作品が、文学界に大きなインパクトを残したことにも肯けます。

事実、町田康2000年に刊行された次作『きれぎれ』で第123回芥川賞を受賞し、作家としての地位を確立。一方の中原昌也はこの作品以降、全く金にならない、文学界はクソだ、本当に書きたくない、と愚痴りまくりながらも作品を発表。2001年の『あらゆる場所に花束が……』で第14回三島由紀夫賞を受賞すると、2006年には『名もなき孤児たちの墓』が第28回野間文芸新人賞を獲得、「点滅……」が第135回芥川賞の候補になるなど、特異な存在感で少なからぬ評価を受けています。

 

こうした文学界における評価が、かえって何らかの意味やメッセージを持っていなければならないという固定観念を生んでしまうのかもしれませんが、しかし小説は他人を出し抜くために根拠のない自己肯定感を高めたり、こずるく稼いだりするのに役立つ(実際にはあまり役に立たないと思いますが)自己啓発本などではありません。意味があろうがなかろうが、もっと単純にそのくだらなさを多くの人が楽しんでくれたら、この生きづらい世の中も少しは生きやすくなるのではないかと思います。

もしもあなたが、この笑えない現実に埋没し、生きづらい世の中の一部となっていくことに少しでも疑問や焦りを感じるのであれば、ぜひ両作品を読んでみてほしいと思います。もしかしたら1ミリも笑えないかもしれません。でも、こんなふざけた本があるなんて、しかも文学界で評価を受けているなんて、そんな事実を笑ってくれたらと思います。

 

 

長々とそれらしい感想を述べてきましたが、実を言うと私は普段それほど本を読みません。本の感想を書くのも、おそらく中学の宿題以来。それではなぜ唐突にこんな文章を書いたのかというと、ライター仕事のプラスにならないかと思い夏から受講しているコピーライティングの講座で、好きな本を一冊紹介するという課題があり、両作品を約20年ぶりに読み返したため。実際に提出したのは300字ほどの短い文章でしたが、それなりに頑張って書いたので、文章の練習も兼ねて改めて書き直してみた次第です。

 

さて、2021年は人生に対する著しいモチベーションの低下により、当ブログの更新も完全に滞ってしまいましたが、2022年は覚悟を決めて、文章を書くことにもっと真剣に取り組んでみようと思っています。誰が読むんだ、こんなブログと思わないわけでもありませんが、読んでくださった方には感謝を申し上げますとともに、素敵な1年が訪れますことを勝手に祈らせていただきます。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

 

参考: 

WEB本の雑誌「作家の読書道:第60回 中原 昌也さん」

WEB本の雑誌「作家の読書道:第52回 町田 康さん

 

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