1989年の結成から35年。2024年4月、ニューヨークが生んだ伝説的スロウコア・バンド、Codeineの初となる来日ツアーが実現しました。
彼らが残した音楽の特徴や重要性、その影響などについては当ブログ最初の投稿である下記の記事をぜひご一読いただきたいのですが、書いた当時は新型コロナウイルスの蔓延によって緊急事態宣言が発令されたばかりの頃。彼らの活動再開はもちろん、ましてや来日公演を見られる日が来るとは夢想だにしていませんでした……。
そんな奇跡の来日を記念して、この記事ではCodeineというバンドの歩みについて掘り下げたいと思います。
1987~1988年: Stephen Immerwahr、John Engle、Chris Brokawの出会い
性別や人種による入学制限を全米で初めて取り払ったリベラル・アーツ・カレッジ、オハイオ州オーバリン大学。1833年の創設以来、著名な芸術家を多数輩出してきた名門大学だが、1980年代後半には、Liz PhairやJohn McEntire、Sooyoung Parkなど、オルタナティブな音楽シーンに大きな影響を与えるミュージシャンを数多く送り出している。
ワシントン州シアトルの郊外、グラニット・フォールズで育った内気な青年、Stephen Immerwahrもその一人。1982年の秋、Vox製のエレクトリック・ベースを片手にオーバリン大学へ入学した彼は、後にSeamのメンバーとなるLexi Mitchellと出会い、彼女を通じて学内にいるミュージシャンとの交流を深めていく。LexiとSeamを結成するBitch MagnetのSooyoung Park。Codeine作品のレコーディングおよびプロデュースを手がけることになるエンジニア、Mike McMackin。その後の音楽活動を後押ししてくれる友人が所属していたのも同じ大学内のコミュニティだった。
Stephenも最終学年時にはLexiとのバンド、The Liliesを結成。Mike McMackin協力の下、Jesus and Mary Chainに影響を受けたノイジーなオリジナル曲を数曲録音するが、ほどなくして解散している。彼の音楽活動が本格化するのは、オーバリンを離れてからのことだった。
大学卒業後の1987年1月、ニューヨークで友人の家を転々としていたStephenは、同じオーバリン大学の後輩に当たるオルタナ・クイーン、Liz Phairの楽曲タイトルにもその名を残す学友、Jeremy Engleの家に居座ることになる。そこで出会ったのが、ニューヨーク州立大学ニューパルツ校を中退し、建設現場でアルバイト生活を送っていたJeremyの兄、John Engleだった。
すぐに仲良くなったStephenは、いつか彼とバンドを組みたいと思ったそうで、二人はJohnの所持する4トラック・レコーダーに自作の曲を録音し始める。その中には、後にCodeineのレパートリーとなる楽曲も既に存在。当時、Mike McMackinのスタジオ、Sound On Soundでアシスタントとして働いていたStephenは、スタジオの空き時間を利用してそれらのスケッチをまとめ上げ、最終的に『Squid + Bigheads Burst Compilation』というカセット・テープを自主制作する。
その音源を聴き、彼らとバンドを結成することになるのが1986年にオーバリン大学を卒業したChris Brokawだった。彼が在学中に組んでいたハードコア・バンド、Pay The Manは学内シーンの起点となるようなバンドだったそうで、Bitch MagnetのドラマーとなるOrestes DelatorreおよびPeter Pollackも在籍。Chrisも卒業後にはGG Allinのバンド、The Aids Brigadeに短期間ではあるが参加し、Homestead RecordsからEP『Expose Yourself To Kids』をリリースしている。
お互い面識こそあれ、在学中に言葉を交わしたことはなかったというStephenとChrisだったが、共通の友人であるSooyoung Parkの引き合わせによりバンドを結成することになる。1988年、大学を卒業してボストンに住んでいたChrisの元へ、「絶対に気にいるはず」とSooyoungから『Squid + Bigheads Burst』のカセットが届く。その楽曲をいたく気に入ったChrisは、すぐさまStephenに連絡。ニューヨークまで出向き、バンド結成の意向を伝えたという。
1989~1990年: Codeine結成と初ライブ
この計画を促し、バンドが世に出るきっかけを作ったのもまたSooyoungであった。1989年、彼はStephenにボストンで行われるBitch Magnetのライブへの出演を依頼。これを受けたStephenはJohnとChrisに声をかけ、以前から構想していたバンドの結成を実行に移す。
それは意図的にテンポを落とし、アヘン剤を使用したような緩慢さを用いて、感情の内なる激しさを表現するバンドだった。そしてそれは、アヘン由来の鎮痛剤にちなんでCodeineと名付けられた。
こうしたバンドのコンセプトについてソング・ライターであるStephenは、大ファンだったロンドン出身の女性ソウル・シンガー、Dusty Springfieldの45インチを33インチにスローダウンしたようなレコードを作ってみたかったと振り返っている。そしてそれは、当時よく聴いていたという「自分ではとても演奏できそうにない」スピード・メタルからの逆転の発想でもあったそうだ。
その後、StephenはBitch Magnetのヨーロッパ・ツアーにPAとして帯同。その際に持ち込んだデモ楽曲「Pea」を気に入ったBitch Magnetはツアー終了後、ルイヴィルでのレコーディングにStephenとJohnを呼び、共に楽曲を録音する。
その音源は1990年にアトランタのレーベル、Communion Labelからリリースされたシングル『Valmead b/w Pea』に収められ、バック・スリーブには「Bitch Magnet backed Codeine」のクレジット表記がなされた。
さらにBitch Magnetはヨーロッパ・ツアーの報酬としてStephenに対し、インタビュー内に注目のバンドとしてCodeineの名前を挙げることを約束する。その試みは見事に成功し、興味を示したドイツのインディー・レーベル、Glitterhouse Recordsは、たった1回のライブしか行っていないバンドにも関わらずレコーディング費用を提供。バンドは契約を正式に成立させるため、ブルックリンに住むMike McMackinのアパートの地下室にて、数ヶ月に分けて片面ずつ、合計4日間を費やしてアルバムを完成させるのであった。
その陰惨なサウンドとは裏腹に、このレコーディング作業は本当に楽しいものであったらしい。StephenもChrisもバンドでの一番の思い出を聞かれた際には、ドイツから郵送で受け取った完成したばかりのLPをリハーサル室に持っていき、安くてまずい葉巻をメンバー全員で吸いながら初めて聴いた時のことを挙げている。
1990~1991年: 『Frigid Stars』とスロウコアの誕生
こうしてCodeineはGlitterhouseより、1990年11月にリリースされたEP「Pickup Song b/w 3 Angels」(ジャケットはWipers『Over the Edge』のオマージュ)でデビューを飾る。そして3ヶ月後の1991年2月には、記念すべき1stアルバム『Frigid Stars』をリリースする。
「極寒の星々」を意味するアルバム・タイトルは、The FallのMark E. Smithによる「Crap Rap/Like 2 Blow」の歌詞「We are frigid stars」に由来。ジャケットにはStephenが図書館で探してきた星の写真をネガポジ反転したものを使用し、印象的な裏ジャケにはJohnが撮影した、彼のアパートで気絶したように眠る友人の写真が採用されている。
なおアルバムにはSooyoungがBitch Magnet解散後にLexi MitchellやSuperchunkのMac McCaughanと共に結成するSeamの楽曲「New Year’s」のカバーが収められている。これは元々、StephenがJohnの家に居候していた頃、よく遊びに来ていたSooyoungとLexiがJohnの4トラックに録音した音源をカバーしたものだったそう。そのため本人たちがSeamの1stアルバム『Headsparks』で正式にレコーティングを行うよりも前に、Codeineによるカバーの方が先に世に出ることになったそうだ。そしてそこには、「Pea」をカバーしたSooyoungへのお礼の意味が込められている。
Chrisがボストンに住んでいたこともあり、なんとこの時点ではまだ数回しかライブを行ったことがなかったというCodeine。他とは一線を画すプレイ・スタイルは、当時の観客から理解を得られないことも多かったそうだが、『Frigid Stars』のシンプルながら強烈なインパクトを持ったサウンドは音楽誌からの評価も高く、各地で評判を呼ぶことに成功する。しかしアメリカ国内ではヨーロッパからの輸入盤しか手に入らなかったことから、当初はドイツのバンドと勘違いされることもあったそうだ。
そこでGlitterhouseは自らがヨーロッパでのディストリビューションを請け負っていた、シアトルのSub Pop Recordsにバンドを紹介。しかしレーベル・オーナーのBruce PavittとJonathan Ponemanがバンドのコンセプトを受け入れるのには数ヶ月を要し、初期にはなんと「グランジ風のギターを入れられないか」という冗談のような提案も受けたという。
シアトル郊外で育ったStephenはGreen RiverやMother Love Boneといったプロト・グランジ・バンドのファンでもあったが、バンドの目指す音楽はドラマチックなロックへのアンチテーゼでもあった。そのためSub Popとの契約には不安もあったそうだが、同時期にBeat Happeningが初の非グランジ・バンドとしてSub Popと契約したことに安心を覚えたという。
最終的には、まだ6回目か7回目だったというライブを見たレーベルが理解を示したことで契約が成立。『Frigid Stars』はレーベル内でも異色の作品としてアメリカ国内でもリリースされ、新たに発売されたCD版には「3 Angels」と新録版の「Pea」がボーナスとして追加された。
このようにして生み出されたCodeineの遅くて悲しいハードコア・パンクは、いつしか「Slowcore」と呼ばれるようになり、彼らに続いて同時期に作品を発表したRed House PaintersやBedhead、Lowといったバンドたちと同じジャンルで括られることとなった。
なおSlowcoreという言葉の正確な起源は不明で、今では彼らよりも先に活動をしていたサンフランシスコのAmerican Music ClubやボストンのGalaxy 500がルーツに挙げられている。しかし実際にこの言葉が使われ始めたのは90年代に入ってからのことであり、リリース時期から考えるとCodeineが最初のバンドとも考えられる。
ただし、かつての「Punk」という呼び名がそうであったように、「Slowcore」というタグ付けは多くのバンドにとって、決して居心地の良いものではなかった。BedheadのMatt Kadaneに至っては、遅さはバンドの本質ではなく「侮辱的」だったとまで発言している。
しかし一方のCodeineメンバーは、このSlowcoreという目新しい言葉を面白がり、冗談めかして使っていたそう。Chrisは自らのプレイを「スネアを叩いたら、ドリンクを取りにいって次のビートまでにドラムキットに戻れる」と発言。Stephenも実現こそしなかったものの、New York Hardcoreの有名なロゴ「NY × HC」をもじって「NY × SC」をバンドのロゴにしようと冗談半分で考えていたそうだ。
ちなみにSlowcoreの同義語には「Sadcore」という言葉もあり、明確な線引きはなされていない。しかしこの言葉は2005年に活動を開始した女性シンガー・ソング・ライター、Lana Del Reyが自らを「Hollywood Sadcore」と称したのに代表されるように、2000年代以降に使われるようになったと考えられている。
実際にCodeineのメンバーが、SlowcoreではなくSadcoreについて言及しているインタビューは、調べた限り見当たらなかった。
1992年: Chrisの脱退と『Barely Real』
そんなNew York Slowcoreの先駆者として大きな評判を得たCodeineは、いよいよライブ活動も本格化させていく。熱狂を持って迎え入れられることもあれば、Sub Pop印のグランジ・サウンドを期待した観客に失望されることもあるなど反応はさまざまだったそうだが、仲間であるSeamはもちろん、Smashing Pumpkinsのようなメジャー・バンドやJesus Lizardのようなインディーズのヒーローたちとも共演を重ねるようになる。
同年の秋には、元Squirrel BaitでBitch Magnetにも在籍したGastr del SolのDavid Grubbsや、オーバリン大学の仲間で後のTortoiseやThe Sea and Cakeの活動でも名高いJohn McEntireらによるバンド、Bastroのヨーロッパ・ツアーをサポート。フランス映画『男と女』からPierre Barouhのカバー「A L'Ombre De Nous (In Our Shadow)」を含むスプリットEP『Music By Bastro And Codeine』もリリースしている。
1992年に入るとStephenは、よりプロフェッショナルな作品を作るべくデータ入力の仕事を辞め、音楽活動に専念することを決める。そしてバンドは同年6月、『The White Birch』と名付けられるはずの2ndアルバムを制作するため、ニューヨークのHarold Dessau RecordingスタジオでMike McMackinと共にレコーディングを開始する。
アルバム・タイトルの由来となったは、アメリカのトーナリズム画家、トーマス・デューイングが1899年に描いた同名の絵画。メトロポリタン美術館でこの絵を見たStephenは一眼で魅了され、作品の所有者に対してアルバム・ジャケットへの使用願いも申請している。
しかし、ここからが苦しい戦いの始まりだった。スタジオ入り初日には、作業開始の宣言と称してStephenが買ってきたマンゴーを切り分けるも、中身が腐っていて食べられないという奇妙な事件が発生。これがレコーディングの行く末を暗示することになってしまう。
スタジオは機材も豪華で音も良く、メンバーは演奏とサウンドにこだわりながら、すべての録音を完了させる。しかしミキシングの段階で音源を聴き返したStephenは、作品としてリリースすることを拒んでしまったのだ。
その理由はボーカル・トラック全体に、Stephen以外には聞き取ることのできない高い周波数のノイズが入っていたこと。そしてStephenが思い描いていたほど、タイトで一貫性のある演奏にはなっていなかったことが挙げられている。
録音に手応えを感じていたJohnとChrisは、彼の決断に大きく落胆。しかし一方のStephenも、自身の目指すサウンドがバンドの手には届かない所にあるのではないかという大きな恐怖に苛まれるようになる。
最終的には絵画の使用も許可が下りず、作品は完全にお蔵入りする。しかし同年の冬にはヨーロッパ・ツアーが控えており、それまでに必ずレコードを出さなければならなかったバンドは、Sub Popから費用を前借りし、再びレコーディングに着手。
ボストンやコネチカット州のスタジオで録音した楽曲やポスト・パンクバンド、MX-80 Soundのカバー「Promise Of Love」、さらにはシカゴ大学の音楽室でJohn McEntireによって録音されたDavid Grubbsによる「Wird」のピアノ演奏バージョン「W.」を何とかまとめ上げ、ミニ・アルバム『Barely Real』のリリースにこぎつける。ジャケットにはウィーンにあるベルヴェデーレ宮殿の絵葉書が用いられており、その色合いが「ほとんど現実とは思えない」ことから題名が付けられている。
しかしHarold Dessau Recordingでの録音を破棄したことに対するChrisの落胆は大きく、結果としそれがバンドからの脱退を後押しすることとなった。Chrisは居住地であるボストンで1990年に結成したバンド、Comeのギタリストとしても精力的に活動を続けており、スケジュールおよび地理的な都合から、いずれはバンドを離れなければならないと感じていたそうだ。
また、他のメンバーもそのことは覚悟していたようで、Chrisは同年の夏、CBGBでのライブをもってComeに専念するためCodeineを去ったのであった。
苦しい状況が続くものの、幸いなことに『Barely Real』の評価は上々だった。予定されていたヨーロッパ・ツアーもゲスト・ドラマーに、Yo La Tengoとも親交の深いニューヨークのバンド、AntietamのJosh Madellを迎えることで無事に成功を収める。
イギリスではBBCラジオの名物DJ、John Peelの番組にも出演。Joshを加えた当時のラインナップでスタジオ・ライブを披露している。
1993~1994年: Doug Scharinの加入と『The White Birch』
その後もJoshとのライブを続けながらドラマーを探していたバンドは1993年の春、『The Village Voice』紙に募集広告を打ち、オーディションを開始する。その中から選ばれたのが新ドラマー、Doug Scharinだった。
コネチカット州ハートフォードで生まれたDougは、家族の影響で幼少の頃から音楽にのめり込み、19歳の時にはボストンへ移り住んでバンド活動を開始。その後、メイン州ポートランドで後にRexへと発展するバンドを結成する。
Rexのメンバーで後にChrisともPullmanを結成するCurtis Harveyとは、89年にボストンで行われたCodeineの初ライブを一緒に目撃しており、そのスローな演奏に自身のバンドも影響を受けたと語っている。
こうして新体制が整ったCodeineだったが、実は当初のオーディションでは別のドラマーが選ばれていたそう。しかしうまく機能せず、ルイヴィルでのリハーサルを前に書き置きを残して失踪してしまう。そこでバンドから連絡を受けたDougは、当時住んでいたブルックリンをすぐに出発。アレンジを覚えるため楽曲を聴きながら、10時間かけて夜通し車を運転したと振り返っている。
長引くドラマー探しに疲れ切っていたメンバーにとって、Dougの強力なドラム・プレイは救いとも言えるものだった。リハーサルに手応えを感じたメンバーは同年8月、Mike McMackinと共にシカゴのIdful Studiosに向かい、新体制でのレコーディングを開始する。
録音機材のトラブルに見舞われるもののスタジオの音響は素晴らしく、アルバムの約半分のトラックが録音される。その後、Flaming LipsおよびMazzy Starのツアー・サポートを行いながらリハーサルとアレンジを繰り返し、コネチカット州ミドルタウンのスタジオとブルックリンのMikeのアパートで残りのトラックを録音。一部の曲にはDavid Grubbsのギターも加え、同年12月、ついに待望の2ndアルバムを完成させる。
Dougいわく、アルバム制作中のバンド内には常に緊張感が漂っていたそうで、特にアルバム制作に大きなプレッシャーを感じていたStephenはミキシングが完了するまで、ほとんど笑顔を見せなかったという。
しかしレコーディングの結果はStephenにとっても納得のいくものとなり、作業を終えてリラックスした表情を浮かべた彼の顔はそれまでとは、まるで違って見えたそうだ。
とうとう完成した2ndアルバム『The White Birch』は翌1994年にリリースされ、タイトルとジャケットの「白樺」が象徴する圧倒的な世界観と高い完成度で大きな評判を呼んだ。バンドは大規模なツアーを行い、イギリスではBBCのJohn Peelセッションにも再び出演。
当時の評価と人気は相当なもので、脱退後にドイツでのライブを見たChrisは「どの公演もソールド・アウトだった」と振り返り、Stephenも「最後の1年半は、音楽だけで生活ができるようになっていた」と語っている。
1994年~2012年: 解散、そして『When I See the Sun』と再結成
しかし持ち曲を使い果たしたStephenの精神的苦痛は、日に日に大きくなっていった。新しい曲が書けなくなった彼は、音楽の女神であるミューズが去ったことを悟り、ツアー終了後にバンドの解散を決意する。
Chrisは結成当初にStephenが「バンドが1年半以上続くとは思わない」と言っていたのを覚えており、思い描いていたことをすべてやり尽くしたのだろうと感じたそうだ。結果として5年間に及んだCodeineの活動は、2枚のアルバムと1枚のミニ・アルバムを残し、静かに幕を閉じたのだった。
その後、DougはRexやJune Of 44、HiMなどで精力的に音楽活動を展開。ChrisもComeを始め、BedheadのKadane兄弟らと結成したThe New YearやRexのCurtis Harveyらと結成したPullmanといったバンド活動の他、ソロやコラボ、映画音楽の制作、さらにはLemonheadsへの加入やBoredomsの「77 Boadrum」にもJosh Madellと共に参加するなど、多岐にわたる音楽キャリアを築いていく。
一方、Stephenはニューヨーク市の保健局で働き、Johnはマーケティング調査の仕事に就く。そして二人は音楽活動から完全に引退してしまうのだった。
以来、再結成のオファーは断り続けていた彼らだったが、解散から18年が経った2012年、Codeineは突然の復活を果たす。きっかけはシカゴのコレクターズ・レーベル、Numero Groupから発売された、全タイトルのリイシューおよび未発表音源を収録したボックス・セット『When I See The Sun』だった。
そこには結成前にJohnの部屋で録音されたデモや『Squid + Bigheads Burst Compilation』からの音源なども収録されることとなり、レーベルの熱意に感動したバンドはプロモーションを兼ねた再結成を決断したのである。
その結果、Stephen、John、Chrisの3人は、Codeineからの影響を公言するMogwaiのキュレーションにより、ロンドンで行われたフェスティバル『ATP I'll be your mirror』に出演。その後アメリカとヨーロッパでもライブを行い、オリジナル・ラインナップでの復活が実現したのだった。
なお当時の再結成では、元Gastr Del SolのJim O'Rourkeがキュレーターを務める日本版ATPフェスにも出演が発表されていたが、直前にイベント自体が中止となり、来日は幻に終わっている。
しかしStephenとJohnの仕事の都合もあり、この再結成はあくまで期間限定だった。バンドは同年7月に行われた、ニューヨークでの公演を最後に再び活動を終了する。
その後、2013年のレコード・ストア・デイには、93年11月に行われたMazzy Starのツアーから、David Grubbsも参加したシカゴでのライブを収めた『What About The Lonely?』がNumero Groupからリリースされた。
2022年~: 『Dessau』と再々結成、そして初来日
こうして完全に活動を終えたかに思えたCodeineだったが、さらに10年の時を経て奇跡の再々結成が実現する。2022年9月、Nemero Groupはバンドが92年に破棄したHarold Dessau Recordingでの音源を30年ぶりに発掘。『Dessau』というタイトルで突如リリースしたのである。
ボーカル・トラックにはMike McMackinの手によるノイズ除去処理がほどこされ、ジャケットにはかつて断念したトーマス・デューイングの絵画『The White Birch』が正式に用いられている。
これを受け、Stephen、John、Chrisの3人は、翌2023年2月にロサンゼルスで開催されたNumero Group設立20周年記念イベントに出演。こちらも約20年ぶりの再結成となったオリンピアのUnwoundやDougの参加するRex、Chrisとのコラボ作でも知られるGeoff Farina率いるKarate、同じニューヨーク出身のフォーク系スロウコア・バンドであるIdaらと共に演奏を披露した。
やはり当初は期間限定の再結成を想定していたようだが、3人のバンドに対する意欲は思いのほか高く、活動は今に至るまで継続されている。その後もライブを続け、2024年2月にはNumeroよりBedheadとのJoy Divisionのカバー・スプリットEP『Codeine & Bedhead Atmosphere/Disorder』もリリース。Netflixで2017年から公開されているドラマ・シリーズ『13 Reasons Why(13の理由)』のBGMにも使用された94年録音のカバー「Atmosphere」およびBedheadによるカバー「Disorder」が収録されている。
そして2024年4月、結成から35年目にして初となる来日ツアーの開催が実現したのである。Stephenは音楽ブログ『Garage Hangover』で紹介されていた「どしゃぶりの雨の中で」を2008年に聴いて以来、日本のソウル・シンガー、和田アキ子の大ファンを公言しているので、おそらく来日の感慨もひとしおのことだろう。
招聘元は前年に、Dougも在籍するJune Of 44の来日ツアーも手掛けたimakinn records。東京、京都、名古屋の3都市で計4公演が予定されている。
かつては再結成で演奏することに不安も感じていたというStephen。しかし自分たちの音楽を心から楽しむファンを目の当たりにし、今では恐れることなく完全に演奏を楽しめるようになったそうだ。つまり今回の来日ツアーは、最高の状態でライブを見られる絶好のチャンスと言えるだろう。
ただ今後については明言していないようで、突然活動を休止する可能性もあれば、もしかしたらまさかの新曲を聴かせてくれることだってあるかもしれない。
Chrisの発言によるとStephenが新曲を書く可能性は限りなく低いそうだが、これまで見てきたように意外な展開で良くも悪くもファンを驚かせてきたバンドだ。新たな奇跡を信じ、さらなる活動の充実に期待したい。
ということでニューヨーク・スロウコアの雄、Codeineの歩みについて紐解いてみました。書き漏れている情報などもあるかとは思いますが、皆さんにとって少しでも興味深い記事なっていれば幸いです。最初で最後になるかもしれない奇跡の来日ライブ、この目にしっかり焼き付けてこようと思います!
参考:
Codeine: Frigid Stars LP – Numero Group
Codeine: Dessau – Numero Group
Village Voice interview (June 2012) — Codeine
The Quietus interview (August 2012) — Codeine
An interview with Codeine (who play Bell House TONIGHT)
Codeine: The Welcomed and Unexpected Relapse of “Slowcore” | blurredvisionary
Codeine – Frigid Stars / “Barely Real” EP / The White Birch - UNCUT
THE SELF-TITLED INTERVIEW: James Plotkin vs. Codeine - self-titled
imakinn records: CODEINE Japan Tour 2024
Interview - Codeine - EXITMUSIK